2019 第161回芥川賞・直木賞決定!芥川賞は今村夏子「むらさきのスカートの女」あらすじと感想

ニュース


2019年芥川賞・直木賞が発表となりました。

第161回芥川賞は、今村夏子さんの、

「むらさきのスカートの女」に決定しました。

 

この記事では、「むらさきのスカートの女」のあらすじや、この小説を読んだ方の

感想などをまとめています。

スポンサーリンク

2019 第161回芥川賞・直木賞決定!芥川賞は今村夏子「むらさきのスカートの女」…登場人物・あらすじ

2019年(平成31年/令和元年)上半期、第161回芥川賞に輝いたのは、

今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」でした。

 

今村夏子さん

 

むらさきのスカートの女

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

むらさきのスカートの女 [ 今村夏子 ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/7/17時点)

楽天で購入

 

 

 

今村夏子「むらさきのスカートの女」登場人物

主な登場人物は2人。

主人公である「わたし」と、「わたし」が観察している

「むらさきのスカートの女」

 

「わたし」は、自分のことを「黄色いカーディガンの女」と表現することもある。

 

今村夏子「むらさきのスカートの女」あらすじ(ちょっとネタバレ)

大人にも子供にも、近所の皆にその存在を知られている「むらさきのスカートの女」。

肩まで伸びたツヤのないパサパサの黒髪、いつも紫色のスカートをはき、

週に一度商店街のパン屋でクリームパンを買い、公園の一番奥のベンチに座ってパンを食べる。

 

そんな彼女を密かに観察する「私」。

彼女が気になって仕方がない「私」は、彼女と友達になるためある策略に出て、

まんまと同じ職場で働くように彼女を仕向けることに成功し、その日常を観察し続ける。

 

「私」目線で語られる「むらさきのスカートの女」の日常。

当初奇異な存在と思われた女が職場の仲間に溶け込んでいく姿を見るにつれ、

逆に浮かび上がってくるのが「私」の狂気。

 

「私」が「黄色いカーディガンの女」として輪郭が露になるとき、

「私」目線で読んできたこちら側の足元が揺らぎだす。

 

 

街に一人か二人はいる?であろう、「ちょっと変わっていて周りから噂されてしまうような人」。

 

私の住んでいる街にも、そんな人がいます。

夏でもロングの真っ黒なゴスロリファッションで街を闊歩するおじさん(!!)や、

信号待ちをしているとどこからともなく現れて宗教の勧誘をしてくるおばあさんなど…。

 

そんな「ちょっと変わった人」として描かれているのが、

題名となっている「むらさきのスカートの女」です。

 

肩まで伸びたツヤのないパサパサの黒髪、いつも紫色のスカートをはき、

週に一度商店街のパン屋でクリームパンを買い、公園の一番奥のベンチに座ってパンを食べる。

 

いつもむらさきのスカートを履いているというだけで、

周りは気になって注目してしまうでしょう。

実際、その奇妙な存在は、近所の大人からも子どもからも知られる、

「変わった人」でした。

 

しかし、そんな「むらさきのスカートの女」を誰より熱心に観察しているのが、

主人公である「わたし」です。

「わたし」は、「むらさきのスカートの女」を友だちになりたくて仕方がありません。

 

あらゆる手段を講じて、「むらさきのスカートの女」に近付こうとします。

なんとかして、自分が勤めている職場で「むらさきのスカートの女」が

働けるよう誘導していきますが…。

 

「変わっている」とは一体何なのか。

「まとも」な人間とはどんな人のことを言うのか?

 

それまで「まとも」だと信じていた概念が揺らぐような作品です。




 

2019 第161回芥川賞・直木賞決定!芥川賞は今村夏子「むらさきのスカートの女」…感想(ネタバレあり)

ここでは、「むらさきのスカートの女」を読んだ方々の率直な感想を

まとめていきます。

 

芥川賞候補作、今村夏子さんの新刊です。
とある商店街で有名な”むらさきスカートの女”。
彼女に興味津々な主人公は尾行を繰り返し、自分の職場で働かせるように工作しまんまと同僚となることに成功する。
はじめは奇特で周囲から浮いているように見えたむらさきスカートの女だったが……。

読みやすくて、不穏で、何か良くないことが起こりそうな気配がびんびんに漂う、今村夏子さんの世界の良さがつまった話でした。
一見、むらさきスカートの女がヤバい人として描かれているのだが、読み手にそこはかとなく伝わってしまうのは、一番ヤバいのは語り手である”主人公”なんだってこと。
それがどれほどの狂気かっていったら、これはもう読んだ人にしか分からないですよ。読者である私たちは、語り手であるヤバい”きいろいカーディガンの女”の目でしか物語を泳いでいくことができないのだ。なんと恐ろしく心許ないことか。
とにかく良かった。どうにも止まらなくなり一気に読みきってしまった。

 

のっぴきならない状況の自分自身はそっちのけで、むらさきのスカートの女の観察者に徹する主人公。
どれだけ執拗に観察したとて、視点と思考回路が独特だから、こちらとしてはどう捉えていいのか判断がつかない。
これ、笑っていいんだろうか…と訝しみながら、あやふやなまま笑ってしまってた。
違うタイミングで読んだら、また全然印象が変わりそう。

ある箇所の言い回し、南キャン山ちゃんの声で再生された。

 

近所に「紫のスカートの女」と呼ばれる女がいる。彼女は呼び名の通りいつも紫のスカートを履いていて、商店街の人波を泳ぐようにすり抜け、行きつけの商店街ではクリームパンをいつも買う。それをもって行きつけの公園には彼女専用のベンチもある。子供たちは彼女にジャンケンで負けた子が声をかけたり、体にタッチをするという肝試し的な遊びが流行っている。そんな彼女は【私】の姉や、小学校時代のハーフの友人、身近にいたはずの誰かに似ている。彼女と仲良くなりたい【私】は職を転々としながら暮らしている紫のスカートの女に自分の働いている職場に働きに来るように様々画策をする。その頑張りで、なんとか遠回りしながらも同じ職場で働くことになった紫のスカートの女は、最初こそ躓いたが、少しずつ頑張りを認められていく。しかしそのいい流れはゆっくりとおかしな方向へ流れていく。そして招かれた結果に【私】がとった行動とはーーーー。

今村さん初読み。
やわらかくて、読みやすい文章はなんだか可笑しみも注入されていてふわりと不思議な世界に足を半分預けているような感覚になった。お話し的には気持ち悪さとか、痛さとか、切なさとか、ホラー感とかが詰まって詰まって、瓶詰めされて、ふふふと笑いをかみ殺すような気持になった。

 

得体の知れないけど不気味なことはなんとなくわかる、なにかを遠巻きにみている。だんだん可視したとき、足元キワキワにぽかりのみ込まれそうな空洞あったよ!みたいなヤバさ。
自分も、むらさきのスカートの女を好機の目でみていたから、結末に仰天する。
それにしても、彼女はどうやって空洞を埋めるつもりなん…や…

 

狂気と紙一重の滑稽さ。変わりえぬ日常。
<わたし>が望むものとは?

紫のスカートの女を観察する
黄色いカーディガンの女。

最初は紫の女が気になってしょうがなかったが、
いつのまにか、
黄色い女の方が気になってしょうがなくなる。

今村さんの術中にはまって最後まで一気読み。
芥川賞おめでとうございます。

 

今村さんの小説を読むと、本は本当に私をどこか別の世界に連れて行ってくれるなあと、しみじみ思う。

世の中に溢れかえる極端な二元論、つまり善か悪、理非のような軸を吹っ飛ばす、我関せずの雰囲気が終始漂う。

直近作「むらさきのスカートの女」も期待を裏切らなかった。変なのだ。真向ナンセンス。歪んでる。それがたまらなくいい。

極めて平易な言葉と、短く簡潔な文章で、最後まで淡々とつづられる筆致。あれ、これ児童書だったかな?

平準な叙述で、細やかな心情の動きを排しながら、淡々と、ひたすら淡々と。

全体像を見たいのに、ひたすら一方からだけ光を当て、その面だけで物語を突き進ませる展開。
なんなのよ、どうなっちゃうの?と、目が離せず、引き込まれる。

ある意味そんな歪んだ作品は、人の持つ執着、強迫的な側面、正しさのずれを際立たせ、狂気すら漂わす。

私もむらさきのスカートの女であり、黄色いカーディガンの女なのだ。

 

街をふらつく変人、「むらさきのスカートの女」をストーカーする、「わたし」の話。

むらさきのスカートの女みたいに、
勝手にあだ名をつけられて、勝手にジンクス背負わされて、勝手に有名人になって、からかわれたり冷ややかな目で見られたりしている人、どこの街にもいると思う。

でもそんな奇人に憧れてストーカーする主人公はもっと変、というか、イカれていました。

話したこともない同姓を追いかけたり、自分と同じ職場に務めさせるために切磋琢磨する姿が淡々と描かれています。
中身があるような、ないような。おやつ感覚で読める一冊でした。

 

芥川賞候補。今村夏子さんのこれまでの作品がとても好きで、先入観と期待が自分の中にあったからかもしれないけど、これじゃない…と思ってしまった。
なにがこれじゃないのか。読みたかったものが? 書かれたものの奥に、これまではあったもやもやのかたまりみたいなものが、なかった、ように感じた。
この作者の新しい作品なんだと思う。けど、芥川賞をとるのが、前作でも、前々作でもなく、この作品だとしたら、うーん、と思う。
むらさきのスカートの女、その女と友だちになりたい主人公が、むらさきのスカートの女を観察し続け、自分と同じ職場で働くよう仕向ける。同じ職場、という関係性ができたのに、まだ友だちにはなれない。会話すらできない。主人公の目線を通して、むらさきのスカートの女に起こる事件が語られる。2人の女の、ずれた感覚。その「ずれ」は、今村さんのこれまでの作品にも描かれてきたし、この作者の強みだと思う。その表現方向?が、今作からすこし変わったように思う。

 

今村さんらしいどこかねじれた感じの物語は最後まで不安定で、どっちが正しくてどっちがおかしいのかわからなくなる心許なさが付きまとう。
そもそも、正しい正しくないはそれぞれの目線によって自在に変化するものだということに気付かされ、言いようのない不安感がもたらされる。

だけど、そんな作風がクセになり、また今村作品を読んでしまうのだろうな~

 

主人公が最後の方まで誰だかわからない。紫のスカートの女もそうとうだが、主人公もかなりのものだった。バスで、肩の米粒をとってあげようと手を伸ばすだけでも、おかしくて笑いがこみ上げて来たのだが、その後の展開がとんでもなくて、電車で読んでいて思わず顔を隠して声を殺して爆笑した。

主人公の主観がどこまで信用していいのか、読んでいて揺らぎ続けて最後までよく分からない。大抵はすんなり信用して安心して読むものだが、ミステリーやサスペンスでないはずなのに、そんな要素が強い。

 

近所のコミュニティで浮いている「むらさきのスカートの女」と彼女を観察し友達になりたいと思う「黄色いカーディガンの女」,まるでストーカーのような語り手が努力した結果むらさきの女がだんだん普通のラインに近づきつまらない女になっていくことに失望し,終盤思い切った行動に出る.完全に裏切られた語り手が,今やむらさきの女の立場にとって変わったかのようなラスト.じわっと怖いです.

 

〈わたし〉と〈むらさきのスカートの女〉は本当はよく似ていたのかもしれないし、〈わたし〉と〈むらさきのスカートの女〉は本当はまったく似ていなかったのかもしれない。

 

今村夏子の最新作。
この何処かずれている感、読んでいてざわざわする持ち味は、著者独特のものだと思う。タイトルの『むらさきのスカートの女』からして、妙に『白いメリーさん』っぽさがある(そういえば一昔前は、メディアに登場させてはいけない方の『有名人』が、何処の繁華街にもいたよなぁ……)。
主人公が『むらさきのスカートの女』に抱く執着心とか、気持ち悪いんだけど面白い。

 

 

もし「むらさきのスカートの女」があなたの住む町にいたら、いったいどうするだろう。好奇心で近づくのか、それとも無関心を貫くのか。直接関わることは避けて、話題にすることで〈娯楽〉にしてしまうのか。分断された世界の「向こうにいる」と感じた相手に対して、誰もが無自覚に残酷だ。不穏でおぞましく、どうしようもないほどに滑稽で醜い。それでいて、読むのを止められない圧倒的な文章に引きずり込まれていく。「どう感じたか」、それを読者一人一人に尋ねてみたくなる。

 

 

皆さん、物語の中にどっぷり引き込まれているようでした…。

 

2019 第161回芥川賞・直木賞決定!芥川賞は今村夏子「むらさきのスカートの女」…まとめ

2019年上半期、第161回芥川賞となったのは、今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」でした。

 

読み終えた後にはなんとなく心がざわざわする…。

そんな奇妙な体験をした読者は、何度も読み返してみたくなることでしょう。

「むらさきのスカートの女」は、こちらから購入可能ですよ。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

むらさきのスカートの女 [ 今村夏子 ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/7/17時点)

楽天で購入

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました